お好み焼きの歴史と未来お好み焼きの語り部

お好み焼きを国民食とした先駆者の方々に伺う。 お好み焼の語り部 広島県内各地のお好み焼店をまわり、歴史を辿る

【第12回】お好み焼一番
井上満智子さん│昭和45年(1970年)創業

取材日:2016年07月14日

主人の仕事の独立がきっかけで、食べていくためにお好み焼屋を。

主人(博継)は菓子の卸屋に勤めて、そのころ独立を計画していました。もし独立が失敗しても何か商売をしていれば食べていけると、主人からお好み焼を勧められました。資本も少なくて誰でもできるし、材料が余っても捨てる無駄がないと思ったからです。その時私はお好み焼など考えたこともなかった。昭和45年、主人が36歳、私が30歳の時でした。子供は娘二人で、その時長女はまだ幼稚園にも入っていなく次女は2歳で小さく不安でしたね。店舗が決まる前に、子供を私の母親に見てもらいながら、主人の知り合いのお好み焼屋さんのところへ1か月くらいキャベツの切り方や焼き方を習いに行きました。それから候補地をさがしました。広商(広島商業高校)の近くを見つけた時、高校生がたくさんいるので、ここだとすぐ決めました。店の名前は、一番になろうという気持ちで最初から「一番」と決めていました。その時主人は店のすぐ前で独立しており、母と妹と私の3人でお好み焼屋を始めました。

開店時からの鉄板

廃業を考えた立ち退きも、広商の野球部の生徒のお蔭で今も続けている。

当初は、広商や舟入高校、山陽高校の生徒が来てくれて忙しかった。自転車通学が多かったので「おばさんの関所を通らなければ帰れん」と言ってくれていました。特に広商野球部の生徒は麺を3玉入れるんです。2玉の注文だと身体の調子が悪いのかと心配しました。しかもみんな立って食べるんです。どうしてかと聞くと、立って食べた方が胃にまっすぐ入るんだといっていましたが、実は「けつバット」でお尻が痛くて座れなかったんですね。昭和48年甲子園で優勝した時の生徒はずっと来てくれていました。特に達川光男さんは1年生の時からよく来てくれて、今でも月に2~3遍は来てくれますよ。開店から7年目の昭和52年、区画整理で立ち退きになり、今の場所に移転しました。その時店を辞めようと思い廃業届も出して、住まいも別の場所に家を建てたんです。子供達もそこの小学校へ入る手配をしていました。しかし広商の生徒たちから、店をいつ始めるのか、といわれ仕方なく廃業をあきらめました。新居は人に貸しました。貸すために建てたようなものです。この店を続けることになったのは、広商の野球部のためだったかもしれません。しかし今日あるのは広商の野球部のおかげです。


ご主人の博継さん

井上さんの長女

今は、主人と娘二人に手伝ってもらいながら、家族でやっています。

今の店に移ってから、しばらくは広商の生徒も来てくれていたのですが、学校から遠くなり少しづつ足が遠のき、今の高校生は全く来ません。最近の若者は待つのが嫌い、暑いのが嫌いで、若い人がお好み焼の味を知らなくなるとお好み焼文化がダメになるんじゃないかと心配します。今は常連の方ばかりです。主人は、10年前より糖尿病で、その後がんを患い今も定期検査に入っていますが5年経ったので少し安心しています。私も10年前、娘から検診を勧められいやいや検診に行ったところ、たまたま乳がんが見つかりその時は1か月店を休みました。進行がんでしたが検診に行っていなければ今どうなっていたかわかりません。娘に感謝です。今は1年に一度の検査です。その他ヘルニアや、足の静脈瘤の手術もしました。いろいろやっていますよ。主人は平成19年に会社を廃業し手伝ってくれていますし、毎日長女が夕方までと、次女が土曜日に手伝ってくれて、家族みんなでやっています。年を取ったので、ボケ防止のため、ぼちぼちやりなさいということじゃないかと思っています。毎日できるということを喜ばないといけませんね。
TOPへ戻る