お好み焼きの歴史と未来お好み焼きの語り部

お好み焼きを国民食とした先駆者の方々に伺う。 お好み焼の語り部 広島県内各地のお好み焼店をまわり、歴史を辿る

【第10回】萩乃家
萩原功さん│昭和35年(1960年)創業

取材日:2016年06月17日

母 仁美さん

改装前の店舗

祖父が尾道で寿司屋をはじめ、祖母がお好み焼屋として引き継ぎました。

祖父(彌太郎)は、東京のご近所の知り合いの方と一緒に、祖母(トヨ)と祖父の兄の3人で尾道に疎開して来ました。祖父は東京目黒の雅叙園の料理長で、尾道は全く縁もゆかりもなかったそうです。それが、そのまま尾道に残って戦後、昭和21年に江戸前の寿司店を始めました。東京も空襲で家がなくなっていたので、思い切ってこの場所を買って商売をするようになったんでしょうね。昭和35年に亡くなるまで寿司屋をしていたんですが、その後祖母が、お好み焼屋に変更して引き継ぎました。東京スタイルの個室の混ぜ焼のお好み焼店だったそうです。ですからお好み焼の創業者は祖母ということになります。当時としては、尾道では珍しい大人のお好み焼屋だったと思いますよ。その後、昭和47年に母(仁美)が引き継ぎました。サラリーマンの父は、昭和58年から本格的に店をやるようになりました。

現在の店舗

父の弱音を初めて聞き、尾道に帰ることを決断しました。

平成4年店を全面改装して、それまで個室のお好み焼だったのを、2階を予約の宴会場にして1階をお好み焼にしました。しかし平成6年父が胃がんに罹りました。その頃長男の私は、銀座で板前をやっておりましたが、心配で一度尾道に帰って母のお好み焼を手伝いました。その時父から初めて弱音を聞いて、いつかは尾道に帰ろうと決断しました。それから平成10年に帰ってきたのですが、父からはお好み焼を継いでくれと特別言われたことはありません。最初は小料理屋でもと思っていましたが、経済面を考えた時に少し迷い、結局お好み焼をそのまま引き継ぎました。父はその後、59歳で亡くなり、今年17回忌を迎えました。今は母と一緒に、独自のお好み焼を「尾道風お好み焼」として普及に努めています。父の趣味は、各地の手形や提灯等のお土産を集めることでした。サラリーマン時代、出張のたびに買って集めており、私の修学旅行等でもお土産を指定されていました。改装時にはその陳列場所をわざわざ作り、そのコレクションを店内の壁面に今も展示しています。

現在の店内


萩乃家独自の「尾道風お好み焼」は、父の考案です。

尾道風というのは、重ね焼ですが、冷たい鉄板にオイルを引かず生地を広げそれから鉄板に火を入れます。そば麺も焼かずに他の具と一緒にのせて、ひっくり返して蒸し焼きにします。基本はシーフードで、魚介類は焼きすぎると旨味が無くなるので、香りを確認しながらじっくり火を通します。その時には豚肉は入れません。麺はそばのみ、うどんは水分が出るから入れません。お客さんがお帰りになると、鉄板は水ですぐ冷やします。この焼き方は父が考えたもので、その時に混ぜ焼から重ね焼に変えました。最初は小エビから始めて、生しゃこ、たいらぎ貝の貝柱、牡蠣などの瀬戸内海の魚介類を入れ、それを「尾道風お好み焼」として商号登記もしています。世間では、尾道のお好み焼は砂ずりが入っていると言われますが、私の店は入れません。広島とか、東京に出店ということを考えなくもないのですが、この焼き方が受け入れられるかどうかですね。いずれは考えようと思っていますが・・・



尾道風お好み焼
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