お好み焼きの歴史と未来お好み焼きの語り部

お好み焼きを国民食とした先駆者の方々に伺う。 お好み焼の語り部 広島県内各地のお好み焼店をまわり、歴史を辿る

【第9回】安原おこのみ
安原シヅカさん│昭和35~36年(1960~1961年)創業

取材日:2016年06月17日
女が一所懸命やらにゃぁ、と思ってお好み焼を始めた。

8月で83歳。27~28歳から始めたので、かれこれ55~56年やっていることになる。昭和35~36年だったか、もうわからんようになった。店の前の川に橋をかけて、その上にバラックが建っていた。姉がそこでお好み焼をしていたが、やめるので継いでやらないか? と言われたので始めた。その頃は松永にいて、お好み焼は知っていたが手伝ったこともなかった。練習も何もせずに始めた。お父さんの給料じゃぁ家も建てられんし、女が一所懸命やらにゃぁと思って、生まれてすぐの子供を背負いながら始めた。子供は息子が二人いる。そこで3年やった。川の上にあったから、皆から、「河原店(かわらみせ)」と呼ばれていた。雨が降るとずれたりして危なかったので今の場所に移った。その店も34~35年前に建て替えて今の店になった。その頃は駄菓子やおもちゃを並べた一文店(いちもんみせ)で、氷やらなんでもあった。悪戯っ子ばかりで、しょっちゅう駄菓子を取られた。


誕生日は昭和8年8月8日。「8」が三つ並んでいるが、これまであまりいいことはなかった。

誕生日は昭和8年8月8日。8が三つ並び、良いことがありそうな並びのいい日にちだが、あまり良いことはなかった。主人は通運会社に勤めており、土日の休みにはメリケン粉を溶いて手伝ってくれていたが、昭和60年、52歳の時に胆管がんで亡くなった。長男が嫁さんを貰うかどうかの時で、仮祝言でもするかと言っていたがそれどころではなかった。長男の嫁も平成24年に亡くなり、その翌年、長男も追うように亡くなった。孫が大学生の就職活動の時でかわいそうだった。その孫も社会人になって、今一緒に暮らしている。ボーナスをもらうとくれるし、屋上の洗濯物も取り込んでくれる優しい孫です。その上に27歳の保母をやっている姉がいるので、それが嫁いでそのあと結婚して、みんな幸せになってくれたらと思う。6歳違いの次男は今福山にいる。 



店をやめたいと思うが、やめたらボケるし…。お客さんと話しができるので、何とか頑張ってやるつもり。

お好み焼は重ねたタイプで、お客さんから砂ずりやエビをいれてくれぇと言われれば入れる。生イカやむきエビもいつも冷蔵庫に用意している。エビは全部自分が殻をむいて使っている。自分で剥かんと美味しゅうない。材料はいいものを使おうと決めている。お客さんはいつもお馴染みさんばかりなので、メニューは置いていないし、そんなもんは要らん。お酒も置いていない。そんなもんがあると長うなるしうるさい。よその男の面倒なんかみとうない。昔は忙しくて、大人も子どももいっぱい来てくれて、店の前で待ってくれていた。今は近所に子どもも少ないし、店の前も人通りがさみしく売れんようになった。もうやめたいくらい。しかしお寺さんがやめなさんな、辞めたらボケるからというので暇でも頑張っている。店をやっているとお客さんと話もできるし。だから決まった定休日というのはない。6年前、すねぼん(膝頭)を手術してプラスチックを入れている。その検査に福山の病院へ行くのでそんな時とか、用事がある時だけ休んでいる。営業許可も昨年更新したのでしばらく続けようと思っている。いつまでできるかわからないが何とか頑張ってやるつもり。

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