お好み焼きの歴史と未来お好み焼きの語り部

お好み焼きを国民食とした先駆者の方々に伺う。 お好み焼の語り部 広島県内各地のお好み焼店をまわり、歴史を辿る

【第7回】お好み焼KAJISAN
梶山敏子さん│昭和40年(1965年)創業

取材日:2016年06月10日

梶山敏子さん

原爆で母を亡くし、「広島子どもを守る会」で主人と出会う

昭和16年、私が生まれた翌年の9月父が病死し、それは弟が生まれた年でした。二人の子供を連れて母親は上天満町の実家に身を寄せ、祖父母と母の姉夫婦と妹、そして私たち3人の8人で生活しました。4歳の時原爆に遭い、爆心地から1.2kmの家は、爆風で一瞬にしてつぶれ、祖母と弟は家の下敷きになりましたが、祖父と伯母さんのご主人に救い出されました。しかし、爆心地に近い十日市に建物疎開へ行っていた母親は待てども帰ってこなかった。小学校6年の時、戦災孤児を養子になって支える精神養子運動の「広島子どもを守る会」に入会し、そこで1歳年上の夫と出会ったんです。昭和37年、「テレビ結婚式」が広島であるというので急遽、結婚することになりました。テレビ番組のための結婚のようで、恋愛感情は全く無く、結婚後も兄妹のような生活でした。

自宅でできる手軽な商売という気持ちで始める

主人の出身地比治山で結婚生活をしました。広島には戦後、多くのバラック住宅があり、自宅前の道路を隔てた川べりにもありました。そこが緑地帯になるため、引っ越しをされた中にお好み焼屋もありました。主人の弟もお好み焼をやってみたらと背中を押してくれ、自宅を改造して店を始めました。会社勤めの夫の留守中、自宅でできる手軽な商売という軽い気持ちで始めましたが、前年に生まれた半年の長男を抱えての商売でした。3年後に次男が生まれ、子どもたちを育てながら店を守ってきました。

二度目の店(写真上)と現在の店(写真下)

店名の「KAJISAN」は苗字

昭和40年から始めた店も、都市計画等で昭和46年と、その後平成元年、比治山トンネルができるというので建て替えました。その頃は橋が架かり、道路が出来、ビルが建ちといつも工事がありましたので、多くの職人さんが来てくれてものすごく忙しかった。3回目の今の店の時に、店名もこれまでの「梶さん」から「KAJISAN」に変えました。下の息子の提案で、名字の梶(カジ)と山(サン)です。広島大学が千田町にあったころは、家に大学生も下宿しており、学生たちもおおぜい来てくれていましたが、大学移転で、今は近所の人や昔からの常連の方になっています。

現在の店内

お好み焼は、私の生きがい

7年前甲状腺がんが見つかりました。4歳で被爆しているのでがん検診は毎年しているのですが、肺の検診の時にたまたまレントゲンで見つかりました。その時はステージ5だった。63歳の時には脳腫瘍も罹った。膝も4回で、60歳から6回も入院し満身創痍です。考えるとこれまで苦労だったのでしょうが、私は苦労とは思っていないんです。今の店に変わるとき、長男は、「辞めてくれないか」と言いましたが、「これは私の生きがいだから」と言って続けています。将来のことは解らないが、二人の子供たちは定年後も店を継ぐ気はないと思います。
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