お好み焼きの歴史と未来お好み焼きの語り部

お好み焼きを国民食とした先駆者の方々に伺う。 お好み焼の語り部 広島県内各地のお好み焼店をまわり、歴史を辿る

【第4回】お好み焼 ひろかわ
広川ノリヱさん│昭和57年(1982年)創業

取材日:2016年01月22日

広川ノリヱさん

パン屋からお好み焼屋に。3倍しんどいが、また3倍楽しみがある。

主人が勤めていた福山のパンメーカーから仕入れて、私はテナントの店でそのパンを販売していましたが、昭和57年、自宅に移転することにしました。ところが目の前に福山通運(福通)があったので飲食にしようと思いお好み焼に変えました。丁度テナントの店の隣が大阪出身のお好み焼店でしたので教えていただき、開店の時も手伝ってもらいました。だからお好み焼は混ぜた関西のお好み焼ですが、すべて私が焼いてお客さんに出します。初めて脱サラして店を始めるのとは違い、もともと商売(パン屋)をやっていたので接客に不安はなかったですが、三原や広島にお好み焼を食べに行っては勉強しました、パン屋とお好み焼屋の違いは、パン屋は出来たものを仕入れて販売する物販ですがお好み焼は自分が作ってお届けするので創意工夫も加わり、2倍とは言わず、3倍もきついです。しかしその分3倍楽しく、しんどい代わりに大きな楽しみがあります。

「ヘラ鮒に始まって、ヘラ鮒に終わる」。メニューは基本にて徹して自分流。

福通の運転手さんや、北は岩手、南は鹿児島のお客さんがよく店に来てくれ各地のメニューを教えてもらいました。「三宮」というメニューも関西にあると言われ取り入れたそば飯で、お客さんと試行錯誤で開発しました。その頃「そば飯」という名がなかったので、地名から「三宮」という名前にしました。ホルモン焼やネギ焼も「やったらいいよ」と言われメニューに加えました。しかしメニューはあれもこれもせず基本に徹し最小限にしています。「ヘラ鮒に始まって、ヘラ鮒に終わる」と言われるように、いろいろ試してみましたがやはり基本が大切と気が付きました。しかしお客さんが何々を入れてほしいと言われると、その都度対応はします。メニューに載せると、必ず応えなければならないので、もしできないとお客さんを裏切るようになりますから・・・。いろいろ参考にさせてもらいますが、結局はお客さんと一緒に自分流でやっています。

趣味はボーリング。この年でパソコン教室も。

定休日は医者通いと好きなボーリングです。ボーリング歴は30年。特に毎週木曜日は夜の8時からですから、家に帰るのは午後11時ごろになります。年と共に力は落ちてスコアも悪くなり、お好み焼ではストレスがたまらないが、スコアが悪いとストレスがたまります。最近ではパソコン教室にも通っています。パソコンは主人が得意で、メニュー表やポスター等を作ってくれていたので助かっていましたが、今は脳トレを兼ねてパソコン教室で勉強しています。主人は10年前に体調を崩し、6年介護したのですが、4年前に亡くなりました。若かったからお店と介護が出来ましたが、今だったら無理でしょうね。



毎日、一期一会と思ってお好み焼を焼いています。

店をオープンしての最初のアルバイトは、今手伝ってくれている高校生のアルバイトのお父さんのお姉さんで伯母さんだったんです。募集をしたらたまたまその姪御さんが来られて。縁というのは不思議なものです。みんなに助けられて今ここに立っています。お客さんからもいろんな話をしてもらっているので本当に勉強になり、毎日、一期一会と思っているんですよ。お好み焼を焼くのが元気の源なのか、それともお好み焼を焼いているから元気なのか、70歳を過ぎましたが、まだまだ店を止めることは考えていませんが・・・。毎日が忙しくてお客さんとの出会いや会話を楽しんでいます。

お好み焼 ひろかわ
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