お好み焼きの歴史と未来お好み焼きの語り部

お好み焼きを国民食とした先駆者の方々に伺う。 お好み焼の語り部 広島県内各地のお好み焼店をまわり、歴史を辿る

【第3回】平の家
平田篤三さん│昭和33年(1958年)創業

取材日:2016年01月22日

平田代表

10年前からお好み焼の店に入るようになった。

兄貴ばかりに目が向いていて、ひがみもあったと思うが母親とはあまり仲良くはなかったですね。だからお好み焼をするつもりはなく、板前をしたり、牛乳屋をやったり、釣りが好きなので海に近い三原でスナックをして毎日釣り三昧でした。鞆の方で友達と海苔船を買い釣り船にして釣りに行ったものですが、その船は盗まれました。本当に好き放題していました。その後サラリーマンになりましたが、10年前、両親も年を取ってきたので店を継ぐ話になり、兄貴には定年後ならばといわれて、両親の体調を考えるとそんなに待てず、それなら次男のわしがするしかないと決め、近くにプレハブの店を借りてお好み焼をするようになりました。平成18年56歳の時でした。

ミンチを使う府中焼

いつ頃からミンチを入れるようになったのか記憶にないが、ミンチは安いから。

母は若い頃、料亭の仲居のようなことをやっていましたから、家族のおかず代を稼ぐため昭和33年、借家でお好み焼店を開店しました。父は勤めていましたが会社を辞め母のお好み焼屋の横で牛乳屋に転職。今でいう脱サラ。その牛乳屋もやめ、お好み焼を夫婦でやるようになりました。今でこそ肉のミンチが入っている「府中焼」といわれるが、最初は肉も麺も入ってなく、キャベツと天かすだけでした。肉は贅沢品で、当時はみんな貧乏だったので入れるどころでなかったですね。それからしばらくして少し余裕が出てきたのか、肉を入れるようになりました。正確な記憶はないですが、麺は小学生の時は入ってなく、中学校の時は入っていたから昭和35年ごろからだと思います。ミンチはそれより後だったですね。ミンチを使ったのは、バラ肉より安かったからだと思う。「府中焼」には店によって、牛、豚、合挽ミンチなどいろいろありますが、今ウチは肉屋さんと友達なので、黒毛和牛のミンチを使っています。しかも加工の方法で肉がベタッと固まらず、ばらけるようにしてもらっています。府中ではうちだけだと思う。そのあとソースを塗り、その上にとき卵を掛けます。

店が立ち退きになり、7年前大借金をして自分の店を持つ。

忙しいときには両親の店に、女房も兄貴の嫁も手伝いに行っていましたが、わしが店をするようになって夫婦で始めました。最初の店はそのまま両親が経営していましたが今は両親とも亡くなっています。2店目の店も3年経ったころ、道路の拡張で立ち退きになり、店を探していたところ、築100年の建具屋があり思い切って大借金して購入しました。平成21年だった。それが今の店です。最初の店は、鉄板周りと小さいテーブルで11名の席数、2店舗目は15席程度でしたが、今の店は約40席。鉄板周りは造船会社で溶接をやっている長男が、内装は消防士の次男がやってくれ家族の手作りです。借金の完納は75歳なので、そこまでは頑張らんといけんと思っています。借金を残して後を引き継がせるわけにはいかんですからね。子供たちは勤めているので、長男の子供(孫)が継いでくれればと思っていますが・・・。今修行として手伝わせています。

奥様(育子さん)と平田代表


我が大将で好きにやっているが、「備後府中焼きを広める会」の監査役。

最近は飲みに行く元気もなく、船舶免許も更新していないので好きな釣りも行っていません。趣味と言えば専ら鉄砲。以前は猪を撃っていましたが、今は雉など山鳥で楽しんでいます。府中は店も増えて市内には40店舗以上あり、取材を多く貰うようになって、広島や岡山など遠方からのお客さんも来られるようになりました。わしは商工会議所にある「備後府中焼きを広める会」の監査役をしていますが名ばかり監査役で・・・。サラリーマンで勤めていたらこんなに自由にならなかったが、今は我が大将なのでよかったと思っています。

平の家
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