お好み焼きの歴史と未来お好み焼きの語り部

お好み焼きを国民食とした先駆者の方々に伺う。 お好み焼の語り部 広島県内各地のお好み焼店をまわり、歴史を辿る

【第19回】お好み焼 大野
岩井玲子さん│昭和35年(1960年)ごろ創業

取材日:2017年07月06日

2代目 母の大野紫折さん

近所のお好み焼屋さんから商売道具一式を譲り受け、祖母が始めた。

祖父は大工の仕事をしていて、祖母(大野ハタミ)は昭和24年ごろから駄菓子屋を営んでいました。昭和35年頃だと思うのですが、通りをはさんだ向かいのお好み焼屋さんが廃業するので、その店の鉄板など商売道具一式を譲り受けて、駄菓子屋と一緒にお好み焼を始めたと聞いています。その後、建築業の父に嫁いできた母(大野紫折)が手伝っていました。祖母と祖父はすでに亡くなっているのですが、父(大正15年生まれ)も48歳で亡くなり、昭和5年生まれで今年87歳の母が、ずっとお好み焼を続けています。今も元気で店に出ているんですよ。私は、結婚する前からお好み焼を手伝っていましたが、結婚後も母と一緒に住んでいましたので、息子が生まれても背中に背負って店に入っていました。今は、私が店を引き継いでいますので、祖母、母、私と女三代で守ってきた店ということになります。もし父が元気であったら、お好み焼はやめていたかも知れませんね。

3代目 岩井玲子さん


以前は、この町に広大生が多く来てくれて、毎日賑わっていた。

千田町は、広島大学が東広島に移転するまではキャンパスがあり、広大生が毎日のようによく来てくれて、学生で賑わっていました。その頃の大学生は麻雀もよくしていましたので、近所の麻雀屋に配達もしていました。今でも70歳を過ぎた広大のOBが来てくれます。嬉しいですね。広大生だけでなく、近くに修道高校もあり、下宿している子も多くいて来てくれていましたね。以前は出前もしており忙しかったのですが、今はコンビニや夜中まで空いているスーパーなどがあり、わざわざ来ていただいてお好み焼を食べることは少なくなっているような気がします。世の中の流れですね。このような対面の店ですとお客さんと距離が近いですから、近ごろの若い方は会話をしたくないということもあるのでしょうかねぇ。お昼は会社関係のお持帰りが多いのですが、忙しいのは土曜日と日曜日ぐらいですね。家族連れやお持帰りです。その時は一人で、てんてこ舞いです。

こうして今までお好み焼を続けられたのは、母のおかげ。

今の店は昭和63年に建て替えて、その時に鉄板も2倍の大きさにしました。譲り受けた鉄板は28年使ったことになります。それまでは、氷とかところてんも一緒にやっていましたが、その時やめました。お好み焼の値段も麺が入って450円でしたが、皆さんが、「安すぎるので値段を上げたら」といわれてその時に500円にしました。それ以来30年間変えていません。今も「安すぎるのでは」といわれています。お好み焼以外に焼き飯やむすびもありますが、それは広大生が、「ご飯ものが欲しい」と言われ加えた時の名残です。鉄板でつくる焼き飯は美味しいんですよ。私はお好み焼以外は特別技術とか持っていないですから、他のところで働くといってもなかなかできませんので、とりあえず70歳まではお好み焼をやることが目標です。こうして今までお好み焼をやれているのは、母がこれまで続けてきてくれたおかげだと思っております。

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