お好み焼きの歴史と未来お好み焼きの語り部

お好み焼きを国民食とした先駆者の方々に伺う。 お好み焼の語り部 広島県内各地のお好み焼店をまわり、歴史を辿る

【第15回】お好み焼 しもむら
川上節江さん│昭和47年(1972年)創業

取材日:2017年01月16日

駄菓子屋を改装してお好み焼店に。

昭和32年、母が40歳の時に内職代わりにこの場所で子供向けの駄菓子屋を始めました。私は小学校の3年生でした。その後結婚して2年程別に暮らしていたのですが、長男が生まれ、昭和47年にまた両親と一緒に暮らすことにしました。その時にお店を2倍の広さのお好み焼店に改装したんです。以前は子どもも多かったのですが少なくなりましたし、大州は工場町といわれ、近所には東洋工業(現マツダ)の下請け工場等が多く、お昼の食事としていいと思ったからです。それとお好み焼店は子供の面倒を見ながら母と二人でできますからね。お好み焼はいつも食べて作り方もよく知っていましたので、見様見真似で始めました。会社勤めの方はお昼に取りに来てくれる方も多かったですね。子供さんは当時も今も、土曜日にたまに来てくれる程度ですかね。開店して間もなく、2番目の子供ができて大きなおなかでやっていました。女の子が生まれ、一か月ほど店を休みました。まだ開店1年という、やり始めだから休めたのだと思いますよ。

口に入るものを作るのだから、鉄板はいつもきれいにしています。


45年間使い続けてきた、ピカピカの鉄板

この鉄板は義兄(姉の旦那)の紹介で、鉄工所にあったものを譲ってもらいました。今はお好み焼専用の鉄板がありますが、当時はなかったですね。横幅2メートルぐらいあり、厚みは2センチでものすごく重く、設置の時は男性10人で持ってきてもらいました。その頃の鉄板としては大きかったですが、小さいより大きい方がいいと思い決めました。ただ2センチの鉄板を温めるには、開店の1時間前から火を入れなくてはいけません。義兄からは、口に入るものを作るのだからきれいにするようにいわれ、仕事が終わると毎日拭いています。店が終わったら隅々でもちょっと拭けばいいのでそんな手間はないですよ。その掃除をしないと一日が終わった気がしません。この鉄板も45年になるのですが今もピカピカでお客さんがびっくりされます。ただ、鉄板の周りは焦げたりして3回替えました。毎日の仕事なのでなかなか休めませんが、17年ほど前主人が定年したときに、定年旅行で1週間北海道に行きました。その時に鉄板の周りの板を取り替えたのが今のものです。メニューはお好み焼と焼そば、焼うどんだけです。昔は夏にところてん等出してみたのですがすぐやめました。不器用ですので何もかにも出来ません。それと主人が勤めていましたので、何が何でも、ということもなかったですし・・・。

     


お好み焼以外には、趣味の卓球をしている。

父は、二人目の子供が生まれて間もなくして亡くなり、母は15年前(平成13年)に亡くなりました。83歳でしたが最後まで現役で店に出ていました。亡くなった年に病院から一時退院した時も、店が忙しいときには布団から起きて手伝ってくれていました。母の体調が悪くなった頃から、夜の営業はやめ、昼だけにしました。母が入院したころから叔母も手伝いに来てくれました。母と30年、叔母と15年、今は一人でやっています。仕事以外の時間は卓球をしています。長女が小学校に入ったころ、PTAで卓球クラブができたので、以前やっていた経験からまた始めました。その頃は土曜日だけの練習だったのですが、今は月一回児童館の小学生、毎週午後か夜には体協、公民館、スポーツセンターで中高生から80代の人たちと一緒に汗を流しています。そのお蔭で足腰はまだ大丈夫です。お好み焼の大好きなお客さんとおしゃべりをして笑顔と元気をもらっているので、もう少し続けていけそうです。

     


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