お好み焼きの歴史と未来お好み焼きの語り部

お好み焼きを国民食とした先駆者の方々に伺う。 お好み焼の語り部 広島県内各地のお好み焼店をまわり、歴史を辿る

【第13回】お好み焼き もり
中本美穂子さん│昭和37年(1962年)創業

取材日:2016年09月28日

私は三代目。創業者の祖母は、5年前82歳で他界しました。

祖母が創業し、二代目を伯父が継ぎ、私は三代目です。今から54年前、昭和37年に母方の祖母は、八百屋をやっており、その片隅に鉄板を置いてお好み焼を始めました。祖母が34歳の時です。子供相手に、麺の入っていない「一銭洋食」のようなものだったと思います。鉄板は、大工だった祖父の手作りで、昭和59年まで22年間使いました。今のものは二代目の鉄板です。祖母は、お客さんが自宅から持ってきたキャベツ玉を千切りにしてあげるほど人が好い人でした。創業以来この場所で、今はじぞう通りと呼ばれていますが当時は並木通りあたりから新川場(しんせんば)通りといっていました。地名の富士見町は、ここから似島の安芸小富士が綺麗に見えたことから名が付いたんですよ。母は、伯父と二人兄妹で飲食関係の人に嫁ぎましたので、伯父が平成9年お好み焼を引継ぎ、祖母と一緒にやっていました。その伯父が56歳で亡くなり、その後1年間、祖母ひとりで店を切り盛りしていましたが、体力的に無理だからということで、12年前、私が三代目として引継ぎました。その祖母も5年前、82歳の時に病気で亡くなりました。



二代目の鉄板


祖母はカリスマ性があり、3年間はプレッシャーでいっぱいでした。

離婚して5歳の息子を抱えて家に戻ってきていた平成16年の時でした。子どもを手元において仕事をするには、自由が利き、奥には住まいもあり、お好み焼は都合がよかったんです。その時私は34歳で、祖母の開業と同い年に引き継いだのは何か運命的なものを感じます。このお好み焼があったから、無事、息子も育てられました。私は小さいころから、母の飲食関係の仕事も手伝いながら、お好み焼も手伝っていましたが、どちらの商売も嫌でした。祖母からは、伯父が引継ぐ前から、やらないかと声を掛けられていましたがずっと断っていたんです。今考えると、まさかお好み焼をするとは思っていませんでした。当初は不安でしたね。祖母はカリスマ性のある人で、祖母と同じようにしなければならないというプレッシャーがありました。祖母と比較されますので、3年ぐらいはいろいろと試行錯誤の毎日だったですね。行き着いた結論は、どんなに努力をし、精進しても同じものは出来ないんだ、と解った時に開き直り、それからは気が楽になりました。 
  



とにかく「昭和」のお好み焼店。息子がお好み焼をやるかどうかは本人次第です。

お客様は、近所の方以外にも、県外の方もよく来ていただきます。この店が広島のお好み焼を昔から変えてないからでしょうかねぇ。ソースも、焼き方も、入れるものも変えてないし・・・。ソースは、開業の時にたまたま営業に来られたのでそこのソースにしました。こだわりはなかったんです、今はこのソースでないといけません。ご縁なんですね。最近の新しいお店と比べると、うちのお好み焼は、味も、そして食感も軽いといわれます。だから、食べた後でも、もう一枚入りそうな感じですね。特段工夫もしていないのですが・・・。とにかく昔のお好み焼きです。持ち帰りの容器も最近よくある発泡スチロールのものは使わず、昔からの薄板を使っています。へぎとか経木ともいいますけど。通気性もいいし、木ですからどこへ捨ててもいいですしね。それを新聞紙で包むんです。この店はいつまでたっても、「昭和」です。近所にも多くの新しいお好み焼店がありますが、お客さんの層が違うのか、影響はありません。店は年中無休ですが、今年の2月から始めたゴルフが趣味で、店を休んでいるときはゴルフに行っている時です。17歳の息子には、小さいころから手伝いをさせ、いつでも店が開けるようにと思っているのですが、私も元気なうちは引継ぐつもりはありません。もし店を開店するとなると、最近の業態のような店になると思いますね。どちらにしても本人次第ですね。

昭和のお好み焼


お持ち帰りの経木                   今でも新聞紙で包む
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