戦争が始まり、広島市内の福島町から牛田町にかけて配給を任されます。酢の醸造を続けながらの多忙な日々でしたが、「人のためになりたい」という想いは消えませんでした。そして迎えた8月6日。店も家も燃えつくされ広島の風景は変わり果てました。
オタフクソースの歩み
大正11年
1922年
昭和13年
1938年
昭和20年
1945年
戦争が始まり、広島市内の福島町から牛田町にかけて配給を任されます。酢の醸造を続けながらの多忙な日々でしたが、「人のためになりたい」という想いは消えませんでした。そして迎えた8月6日。店も家も燃えつくされ広島の風景は変わり果てました。
昭和21年
1946年
廃墟の中、心の中で醸造酢の再開を誓った清一。借り受けた酒蔵を酢蔵に改修し、いよいよ酢の仕込みを始めました。
昭和24年
1949年
明治維新以後、イギリスから伝わったウスターソース。大衆にも洋食文化が花開き、製造メーカーも増加します。ソースも調合が決め手の調味料。「これからはますます洋食の時代になる」という知人の言葉に背中を押されソースの製造を始めました。
昭和25年
1950年
ソースを作り、売るのは困難の連続でした。佐々木商店は後発メーカーであり、取り扱ってくれる卸問屋も簡単には見つかりません。それでも「とにかくやってみるしかない!」と試行錯誤を続け、約1年がかりでウスターソースが完成しました。
昭和27年
1952年
昭和30年
1955年
昭和32年
1957年
昭和50年
1975年
昭和50年
1975年
広島東洋カープがセ・リーグ初優勝を果たし、お祝いムードの広島市内。テレビ中継で注目されたのは、喜ぶ市民の姿とお好み焼でした。広島のお好み焼は全国的に知られるようになり、ソウルフード、ご当地メニューとして、今も愛されています。
昭和50年
1975年
酢とソースの売上比率が逆転し、お多福造酢は「ソース」のイメージが強くなっていました。これからは調味料メーカーとして、また社名とブランド名が直結しているほうが良いと、「お多福造酢株式会社」は「オタフクソース株式会社」に社名を一新しました。
昭和50年に山陽新幹線の岡山・博多間が開通すると、お土産・口コミなどでお好みソースは日本中に広まりましたが、ソースの味や品質が安定し、問題が生じたときにすぐ対応できる体制が整うまで販売エリアを広げませんでした。
昭和53年
1978年
昭和57年
1982年
昭和62年
1987年
平成2年
1990年
「お好みソース」を全国で販売するようになると、生産量も増え、本社工場が手狭に。そこで、工場の一部を「自然の恵みで天然の味覚を作る」理念に通ずる場所、広島県賀茂郡(現・三原市)大和町へ移転しました。
平成3年
1991年
湾岸戦争が勃発し、記者から1本の電話で、日本が輸入しているデーツの大半が「お好みソース」の原材料だと知ります。「お好みソースが作られなくなる?」と報道されたことで買い占めが発生。一時期棚から姿を消し、生産が追いつかなくなるほどでした。
平成10年
1998年
お好み焼を日本全国に広めるには混ぜ焼である関西のお好み焼のほうがポピュラーで汎用性も高いことから、材料セットを発売しました。家庭のホットプレートで気軽に、多くの人にお好み焼を楽しんでいただける商品です。
平成10年
1998年
「お好み焼を世界中に広めたい」という夢から、アメリカ・ロサンゼルスに「OTAFUKU USA,Inc.」を設立。2000年には「Otafuku Foods,Inc.」に社名を変更し、2013年には工場も開設しました。
平成10年
1998年
お好み焼を広める活動に特化した専門部署。開業を志す方へ焼き方や店舗経営のノウハウを伝授するお好み焼研修センターの運営、お好み焼教室の講師など、お好み焼を中心としたコミュニケーションの輪を広げる活動をしています。
平成18年
2006年
平成20年
2008年
平成29年
2017年
野菜と健康をテーマに、オタフク初のコンセプトショップをオープン。食べておいしく、見た目も楽しい野菜料理を提供しています。「ソース工房」では、生の野菜からソースやドレッシングを製造。2021年11月には「おやさい焼そば専門店」にリニューアルしました。
平成30年
2018年
平成30年
2018年
「オタフク」から「OTafUKU」へロゴマークを刷新。外国の方にも認識してもらいやすく、もっと世界へ展開していくという意志が込めています。「af」は小文字で、やさしく福よかな印象。「fU」はソースがとろっと注がれるイメージを表現しています。