お好み焼きの歴史と未来お好み焼きの語り部

お好み焼きを国民食とした先駆者の方々に伺う。 お好み焼の語り部 広島県内各地のお好み焼店をまわり、歴史を辿る

【第11回】お好み焼のぐち
谷ナオコさん│昭和20年(1945年)代後半創業

取材日:2016年06月17日

営業は金曜・土曜・日曜の3日間。外国人の観光客も多いです。

父は心筋梗塞に罹って、今病院に入院しています。ですから毎週金曜日に、向島の姉(三阪美智子)と岡山から私が来て店をやっています。2~3年前から兄(野口茂樹)も手伝ってくれていますので今は3人です。店を開けるのは金曜から日曜日の3日間だけの夕方5時から夜中の1時まで。私は月曜日の朝岡山に帰ります。尾道にはゲストハウスがたくさんあって、地元のお客さんだけでなく観光で来られている人も多いんです。外国人の方はその宿の人に聞いて来てくれますよ。ですから深夜でも結構お客さんは多いです。

 
姉の三阪美智子さん        店主野口秋治郎さん

戦後、祖父夫婦と母でお好み焼屋を始める。父は母が亡くなってからお好み焼を。

尾道出身の祖父(母の父)は、戦前、大阪で「大虎」という蒲鉾屋をやっていました。戦後尾道に帰ってきて、祖父と祖母と娘の3人で昭和20年代の後半にお好み焼屋を始めたそうです。娘というのは母のことです。祖母は身体が弱く、姉の美智子が生まれる前に亡くなりました。店頭では果物も売っていましたし、お好み焼だけでなく焼き芋や、夏にはかき氷やところ天などなんでもありました。でも、何故お好み焼を始めたのかわかりません。それでも60年以上続いています。うちがお好み焼を始めると、まもなく近所にも3~4店のお好み焼屋ができて母は必至で頑張ったそうです。その後、漁師をしていた父(野口秋治郎 昭和8年生まれ)と結婚をしましたが、店は母がやっていました。その母が17年前に亡くなって、それから父が店に入るようになったんです。私たち姉妹は小さい頃この商売が大嫌いで、なんでこんな商売屋に生まれただろうと恨みました。漁師の父からも、魚が獲れると市場に魚をもっていかされるし、嫌で仕方がなかった。姉はずっと店を手伝っていたのですが、私も、姪(姉の娘)と交代で隔週手伝うようになりましたが、6年前、姪に子供が生まれ、それからは毎週来るようになりました。

特徴は牛の背油。父の心の中には、今でも母が生きている。



以前の鉄板はおでんもやっていたのでもっと小さかった。この鉄板は常石造船に勤めている近所の人に、そこで作ってもらいました。うちのお好み焼は、薄い生地をカリカリに焼き、その上にキャベツといろんな具を盛り、最後は店独特の隠し味となる牛の背油をのせます。まさしく尾道風お好み焼です。お客さんにはメニューに書かれた番号で注文してもらいます。砂ずりの入ったお好み焼が多いですね。一番よく出るのは、6番と10番。父は番号で注文しないと怒っていました。父はいろいろな工夫をする人で、水はPETボトルに水を凍らせて出すことにしているし、刷毛をポットにひっかけるフックを考えたのも父です。母親の時はほとんど休みもなく営業していましたが、父が引き継いだ時に週2回休むことにしました。それから父がぎっくり腰になって、それをきっかけに週3日の営業にしました。母は無くなる時に、「いやじゃったら、店をやめればいいよ」と言いましたが、お客さんがやめないように、と言ってくれたので今も続けていられます。母の「食品衛生責任者名札」は、今も貼ったまま。これは父の母への思いの表れだと思います。


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