昭和30年代の思い出エッセイ募集
入選作品紹介
父ちゃんの「いえおこ」
亀井 貴司(広島県)
はじめに
 大正生まれの父は三人の妹の兄だったが父親を早くに亡くし家計を助けるため 小学校卒業から企業で働きながら職人の養成学校へ。長男でありながら戦争末期には召集され中国大陸を転戦し熱病で死にかけた。そんなこんなを理由に元の会社に戻れず 学歴は小学校卒のまま。 やがて三原の繊維会社で職工として不規則な生活を強いられる三交代勤務で家族五人の生活を支える。日本人のほとんどが そんなに裕福でなかった頃の 父とお好み焼きの思い出をエッセイにしました(広島市内 ではありません 広島「県」のお好み焼きということでご了承いただきたい)

『父ちゃんの「いえおこ」』
 ここは広島県三原市。人口八万人強の地方の小都市。県内のどこでも見られたように この町にもあちこちにお好み焼き屋があった。暖簾をくぐると使いこなされて黒光りのする木製の丸椅子に毛糸で編んだ座布団 待ち時間に読む漫画雑誌の数々 夏場にはかき氷などのサイドメニューも充実していた。
 しかし うちにはお金がなかった。電気冷蔵庫すらなかったので 木製の木箱の内側にトタン板を貼り付けた木製冷蔵庫に氷を買ってきて生ものを保存していた。それも毎日ではない。氷が高いから。
 中古の電気掃除機を購入したころには、「母ちゃん 十円ちょうだい」とせがんでも「ごめんね 今月は苦しいんよ」の返事。しかたなく近所の友だちと六ムシに興じる。テレビは白黒中古で 映りが悪いときには叩いて直した。移動手段はおおむね徒歩。我が家の交通機関は無骨な自転車が一台と妹を載せていた乳母車が一台。自家用車なぞ 夢の乗り物。
 こういう状態だから「お好み焼き 食べに行こうや」とせがんでも「贅沢は敵だ」と時代錯誤の返答が親父から返ってくるばかり。「ええとこ 連れてってーや」には「えーとこ えーとこ しゅーらっかん!」(これは関西圏で有名な聚楽館のこと)とはぐらかされるのみ。
 ところが、その代わり(かどうかは不明)か 月に一度 そんな父がお好み焼きを作ってくれるようになった。車も免許もないのに 一メートル四方ぐらいの分厚い鉄板を仕入れて(鉄工所に頼んだらしい 後日発覚)きた。
 若い頃 大工の見習いをしていたという父は 手先が器用でいろんなものを自分で作っていた。食卓や椅子 子ども用の学習机 ちょっとした棚などはほとんど手作り製品で埋まっていた我が家の風景。そういう趣味と実益が高じて 本格的お好み焼き屋仕様の鉄板仕込み木製ダイニングテーブルを作成してしまった。
 普段はありふれたダイニングテーブル。天板を外すと そこにはプロ仕様に見えるお好み焼き専用テーブル。厚さ十三ミリのこだわり鉄板のサイドには皿を置くスペースがある。鉄板の真下中央にプロパンガス用のコンロをかまして兼ねる。油をなじませながら、じっくり加熱した鉄板で焼き始める。
 「たかし! 友だち呼んじゃれー」の声に 同じ社宅に住む同級生とその弟を呼びに行く。サービス精神に富む父だった。キンキーンと金属ヘラの音を立てながら次々に「注文の品」を焼いていく。近所の店で食べたことはなくても 父の焼くお好み焼きは旨かった。多い時には「そばモダンダブル二枚」と「焼きそば一人前」をたいらげたこともある。
 そんな父も他界して二十年。いまでは我が家のお好み焼き担当になった私も六十歳。鉄板仕込みのテーブルはないけれどホットプレートで焼く「いえ」お好み焼きの味を追求し続けている。(手前味噌ですが、家族からの評価は◎であります)
一覧
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